私の編曲による弦楽合奏版ムソルグスキー作曲「展覧会の絵」のコンサートが東京四ッ谷区民ホールで開かれる事になった。2007年に北海道江別の江別弦楽アンサンブルで私の指揮で初演されてから、その後広島のアンサンブル ドゥマンでも演奏され今回が3回目となった。
String CONSONOは柏木真樹さんが主催するOrchestra CONSONOのメンバーが主力となって今回のコンサートの為に集まっていただいた。Orchestra CONSONOはこの1月に東京第1生命ホールで第1回コンサートを開き、私もハイドンのC durのコンチェルトで客演した。アマチュア団体ながらかなりハイレベルな団体だが、今回のコンサートはゲネプロを含めて5回のリハーサルというプロ並みのかなりタイトなスケジュールだ。今回のコンサートの為に何年も前から準備におほねおり頂いた柏木さんと、Mさんにこの場で厚くお礼申し上げます。
2012年4月1日(日) 14時開演
津留崎直紀 指揮
String CONSONO
ヴァイオリン:柏木真樹
チェロ:津留崎直紀
J.S. Bach:「音楽の捧げもの」より抜粋
J.Ch. Bach:協奏交響曲
イ長調
Mussorgsky/津留崎:弦楽合奏版 「展覧会の絵」
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鬼才ムソルグスキーのこの名作は
あまりに有名になりすぎたのではないかと時々思う。ラヴェルのオーケストレーションがそれに大いに貢献した事は間違いないが、それ以外にもオーケストラ版だけでも複数以上あるし、金管アンサンブル版、吹奏楽版、その他考えられないような編成まで含めて、ありとあらゆる編曲が存在している。私はそれでも尚かつ演奏が良ければ原曲のピアノ版に一番心が惹かれる。当然と言えば当然だが、ラヴェルはもちろんのことこの曲はどうも管楽器、特に金管の響きに吸い寄せられる傾向が強い。やはりラヴェルの影響なのだろうか。しかしピアノの原曲版を読んだり聞いたりして、もう一度原点に返ってみると必ずしもそうとも言えない気がして来る。
典型的な例は冒頭のあの有名なトランペットのソロで始まる「プロムナード」だ。少し脱線するが、以前トランペトのオケの同僚と雑談中にこの曲の編曲の話をしたら冗談まじりに「トランペットがなくてどうやってあの曲を演奏できるのか」と言われた。まあ多少の誇張はあるにしてもある意味「的を射た」発言ではある。それほどラヴェルの影響が大きいという事なのだろう。ピアニストにも反対の影響を及ぼして、ラヴェルのオーケストレーションをまねしたような弾き方もあるくらいだから。
しかし、どうなんだろう。あの譜面を読むと私にはロシア正教の教会で聖歌隊が司祭の後についてコラールを歌う情景が私には目に浮かんでくるのである。実際にそういう事があるのかどうかは別にして和声のモダールな扱いといい、3拍子と2拍子が混在した古風な響きといい、古いロシアの音楽と言った趣である。ドイツのルッターなどの「賛美歌」と同じような、素朴な音楽である。2拍子3拍子が混在するのは近代西洋音楽が確立する以前の「ことば」から発した音楽には(多くの古い民謡などはそうである)たくさんある。果たしてこの「プロムナード」がそういった物なのかは知らないが、そうでなくてもいっこうに構わない。なぜならムソルグスキーの"nel modo rustico"*という発想記号がそれを示唆しているからだ。だから近代的金管楽器の響きはどうも華やかすぎるような気がする。編曲しながらそれに思い当たった時、これは弦楽アンサンブルでもヴィオール族のコンソートで弾いたらもっと面白いのではないかと思ったくらいだ。だから今度の演奏会でもこの部分はそういうアプローチで演奏する。古風な音楽は他にも「古城」や「キエフの大門」のコラールなどにでて来る。「古城」と言えば、ここででて来る旋律も現実的にはなかなか難しいがヴィオラダモーレ(またはガンバ)のために書いた。ない場合はヴィオラで代用するのだが。
*注:実際には"nel modo russico"と書かれているが、russicoというイタリア語はないようで、"rustico"=素朴な、古風なの誤りか?"russo"(ロシア風)と書かれている版もある。
残念ながら私は30年以上オペラを弾いていながらムソルグスキーのオペラは「ボリス ゴドノフ」(原典版)以外弾いた事がないし見た事がない。しかしそれでもその経験は私のムソルグスキー観を大きく変えるに充分だった。あのオペラにもたくさんの「古風な」音楽がでて来る。ロシア正教風のモダールな音楽である。ベートーヴェンが「ラズモフスキーカルテット第2番」で使ったあの有名なロシア正教のコラールもクライマックスで現れる。(ちなみにチャコフスキーも同じコラールを「マゼッパ」で使っているのが興味深い)ああいう所を聞くと、決して派手ではなくどちらかというと「ヘタ」で不器用に聞こえるオーケストレーションをするムソルグスキーは実はヘタなのではなく確信を持って書いていた事が理解できる。リムスキーなどはそれを理解しようとせず(または出来ず?)オーケストレーションはおろか、音や和声を変え場合によってはカットまでして(「禿げ山の一夜」はその典型的な例)徹底的にムソルグスキーの持っている「鬼才」ぶりを削ぎ落とし西洋風な「普通」の洗練された音楽にしてしまった。(これらは全て後世の「後知恵」ではあるのだが)「ボリス」も原典版が普通に演奏されるようになったのはそう古い話ではないのである。ついでに書いておくと、ムソルグスキーは音符の書き方も大変風変わりで、エンハーモニックを使って読みやすくするという事をしない。「展覧会」はそれほどでもないが原典版「ボリス」ではそういう箇所がたくさんある。例えばの話ではドヴォルザークの「新世界」の2楽章の中間部、Cis mollがDes mollで全て書かれている事を想像してもらえれば良い。この点はほぼ同時代人と言っていいヤナーチェクと非常に似ている。非アカデミックなこの二人の作曲家のこういう共通点は何かの示唆なのかもしれない。
ラヴェルという作曲家はそういう観点から見て一番遠い存在と言ったら大げさだろうか。ラヴェルは技巧的にも感性的にも洗練し尽くされた西洋的作曲家である。和声論やオーケストレーション法をアカデミックすぎるくらいにきちんと身に付けた秀才である。日曜アマチュア作曲家でアカデミスムからは対極的な人だったムソルグスキーの「ヘタ」な超ロシア的音楽を果たしてどれほど理解しただろうか? いや、理解しようとするよりはむしろリムスキーのように「未開国ロシア」の「素人作曲家」の音楽を自分の西洋的、いやもっと言えばフランス的センスに味付けしてしまったような気がする。幸か不幸かそれが近代オーケストラという絢爛豪華な性能を余す所なく発揮するように書かれてしまった。もう後には戻れないくらい。
クーセヴィツキがオーケストレーションを依頼したのがラヴェルだったのはどうしてかと時々思う。これがストラヴィンスキーだったらどんなだったろうかと想像すると少しエキサイティングだが今となってはもう想像の域を出ないことだ。